惨めな「ワナビー」たちの小さな革命――ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店・1994)

 

獄中から、つらつら考えたとき、ブリソーにとってアンシアン・レジームなるものは、彼自身のような自由な精神を圧し潰す陰謀であるかのように見えただろう。シャルトルの酒場経営者の一三番目の息子として生まれた彼は、これより七年前に、パリを首都とする文芸共和国の尊敬すべき市民としての地位を獲得しようと試みたのだった。その目的にふさわしいテーマについて、彼は何千ページも書いた。(…)若い文筆家としてなすべきことは何でもやったにもかかわらず、パリは彼をフィロゾーフとして認めようとしなかった。

 

フランス革命期にジロンド派の指導者として活躍したジャック=ピエール・ブリソーという人物がいる。自身の回想録で彼は、自分が革命精神を体現する一生を送ったのだと主張する。フランス革命期に生きた「一つの世代の願望の完全な象徴」、歴史学者はこうしたブリトー像を認めてきた。しかしダーントンは彼を検討する章に容赦なく次のようなタイトルを付ける。「どん底世界に棲むスパイ」。

 

 

ダーントンの調査によると、ブリソーは「つらつら考えた」獄中から出るために策略を用いたらしい。当時の警視総監ルノワールに取り入り、違法出版を告発するスパイとして自分を登用してもらったのである。この秘密の関係が彼を牢獄から解放し、その後の生活を保障してくれた。

 

しかし彼を偽善者だと断罪するのが目的なのではない。むしろ「牢獄からの策略による脱出」という経験から、彼は本当に革命への情熱を養ったのだとダーントンは推測している。ただし本人が主張するような「愛国精神」によってではなく、自尊心を損ねたためだったが。

 

どんなに彼は、そのアンシアン・レジームを憎んだことか。彼をうちのめした上で奉仕者として取り込んだ恣意的な権力機構に対し、どんなに内にこもった怒りを抱いたことか。この体制の統率者たち、自らの力で名誉ある地位をかちとろうとした彼の試みを妨げ、次いでは手先として使うことによって彼の自尊心を傷つけた連中を、どんなに彼は罵ったことか。

 

歴史的な大事件であるフランス革命を動かしたのが、愛国心や正義感などではなく、あまりにも個人的な情動だったということ、実はこれが『革命前夜の地下出版』の要点なのだ。「革命前夜」、「地下出版」というタイトルからは何か英雄的な、高邁な精神にもとづく運動が予想されるが、意に反して本書に出てくるのは惨めな人物ばかりである。『ラモーの甥』を地で行くル=センヌ――啓蒙主義の大義に生涯を捧げながら、やっていたことは詐欺で、貧窮のうちに死ぬ。「地下出版」の流通を担った密輸商として取り上げられるモーヴランも、出版協会への負債を踏み倒すなどの悪行を働いた詐欺師で、扱った出版物はルソー、ディドロなど大思想家の著作ではなく、政府を誹謗中傷するパンフレットやポルノ小説の類が主だった。

 

彼らが惨めな境遇にあった原因も共通している。みんな「ワナビー」だったのだ。彼らは文筆家の地位が上昇したのを見て、憧れ、少し文章が書けたために自分もそうなれると思い(勘違いし)、パリに出てきた。しかし、たしかに文筆家の地位は上がっていたのだが、階級を上るために重要だったのは作品ではなく、縁故や家柄、社交の方だった。憧れる人々が増加する一方で、相変わらず閉鎖的なサロン。階級を上る方策のない「ワナビー」たちは底辺でどんどん溢れていった。なぜ同じように文章が書けるのにあいつらが認められて俺は貧しいままなのか。革命前のフランスではこのような憎悪にかられた「ワナビー」たちが生み出され続け、社会的な緊張が強まりつつあった。

 

そして底辺にいた彼らの憎悪が革命を動かすことになる。感情的な彼らの政治的パンフレットで政策について議論されることなどはなかったが、「それにもかかわらず、これらの小冊子は、これまで臣民に王政の正当性を認めさせてきた象徴の聖性を剥ぎとり、神話を矮小化することによって、革命を準備したのである。」

 

ダーントンの調査によって、革命が啓蒙主義の大思想家によって先導されたという歴史観は再考を余儀なくされた。ルソーやディドロの思想が大衆に広く受容された形跡はなく、革命に影響を与えたとは考え難い。むしろ大衆はそうした大思想家よりも二流のパンフレット作者に接していたのであって、彼らの個人的な憎悪にもとづく誹謗中傷が革命を準備したのだ。だから二流三流の「ワナビー」が革命を起こしたと言えなくもないのだが、一方で彼らの思想がいわゆる啓蒙主義だったとも言えないのである。ダーントンの言い方はあくまでも微妙だ。

 

誹謗文書作家は永年にわたりそのやっつけ仕事を山と積み上げたのであるが、誰ひとり葬り去ることはできなかった。しかし、この積み上げの努力が、ルイ十五世なきあとの大洪水をもたらしたと言えよう。

 

ダーントンが大思想家ではなく「地下」の人々に焦点を当てたのは理論的な要請のためでもあった。一つの時代は一人の偉大な人物によって作られるのではなく、多くの名もなき人々の生活に根ざしている。こうした主張が歴史学の発展によって次第に興隆してきていた。しかしその結果、大思想家よりも偉大な一つの民衆が見出されてしまうとすれば、それは新たな権威を形成することにしかならないだろう。そこにも登録されない、名もなき、そして凡庸な人々はさらに抑圧されてしまうことになる。本書は革命家をあまりにも哀れな姿のまま示すことで、この過ちを避けている。「ワナビー」は「ワナビー」。惨めなのだ。彼らを再び神秘化しない誠実さは冷たくも感じるが、ぼくにとっては頭を冷やす契機にもなったのだった。