美味しい韓国料理の修辞学――李禹煥の言葉から

昨年、第21回文学フリマ東京(2015年11月23日)にて発行された、尊厳さん制作の食と性に関するZINE『食に淫する』(詳細は以下。5/1の第22回文学フリマ東京では第2号が発行されます。)に「美味しい料理の修辞学」というタイトルの評論を寄稿しました。

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文中で明らかにしているように、これは廣瀬純『美味しい料理の哲学』に着想を得て書いたものです(廣瀬さんは最近『美味しい料理の哲学』の続編をネット上で書き始めておられます→廣瀬純「おいしい料理の哲学」#1 切断について | FOODIE(フーディー))。

 

同書で取り上げられた料理の一つにヌーヴェル・キュイジーヌなるものがありました。「ヌーヴェル・キュイジーヌ」とは1970年代にフランスで現れた、素材を優先する簡素な傾向を持った調理法のことで、廣瀬はこれを出来合いのレシピを提供するのではないある種即興的な料理のあり方の例として用いていました。確実には得られない、要素の関係性に価値を見出し、それを「美味しさ」として言祝ぐのです。そこで私は、その「即興的な料理」を「読み取られ得る意味」へと転換してみることで、ここで言われているのが一種の修辞学の問題なのではないかという議論を行いました。

 

しかし日本のいわゆる「もの」派を主導した現代美術家である李禹煥は、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」に対して真反対の意見を述べています。

 

 

かつてないほど素材に気を配り、肉に野菜をやたらと抱き合わせたがる新フランス料理といったところで、一つの名前一つのお皿ひとりのシェフの存在が、絶対的なものであることに変わりはない。そこでは依然として、シェフの、イメージの、出来上がった作品をまるごと呑み込むようにして賞味しなければならない。食べる者は、良し悪しの判断が結果的に認められているとはいえ、料理からもっぱら一つのメッセージを受け取るしかなく、それを別なものにズラしたり組み替えてはならない。シェフによってすべてが決定され、料理というオブジェのなかに一切の意味と価値が詰め込まれていて、それがお膳というフィールド、いや食事の時空間を占拠しているのだ。つまり料理は、シェフによって存在を保証された完成品であり、したがって食べる者といえども、勝手な振舞いは許されないように出来ているのである。(「料理と彫刻」)

 

これは李のエッセイ集『時の震え』からの引用ですが、非常にはっきりと「新フランス料理」(=「ヌーヴェル・キュイジーヌ」)を批判しています。李が一方では理論家として、廣瀬と同様フランス現代思想などにある程度の共感を示していることを知っていると、このことはより不可解な印象を与えるでしょう。両者の違いは何によるものなのでしょうか。

 

李には他にもいくつか料理に関するエッセイがあります。その中には自らの故郷である韓国の料理に関するものが多いのですが、韓国料理は「ヌーヴェル・キュイジーヌ」とは異なり肯定的に見られています。彼にとって韓国料理は、膳の上に「飯のほか大丼のスープ、キムチやナムルや焼魚、肉シチュー、その他塩辛や季節料理など。温いもの冷たいもの、辛いもの酸っぱいもの、よりどりみどり何でも一緒に並ぶ」ようなものであり、「あれやこれやが口のなかで噛み砕かれ調合されて、はじめて本当の料理となるのだ」(「故里」)といいます。

 

料理をどのように捉えているかということに注目すれば、違う所は明らかです。「料理は、シェフによって存在を保証された完成品であり、したがって食べる者といえども、勝手な振舞いは許されないように出来ている」「ヌーヴェル・キュイジーヌ」に対して、韓国料理は「口のなかで噛み砕かれ調合されて、はじめて本当の料理となる」のです。対立しているのは料理を完成するのがシェフなのか、食べる者なのか、という点です。

 

だとすれば、むしろ「美味しい料理の修辞学」として語るべきだったのは廣瀬ではなく、李の方だったのではないでしょうか。そもそも、文中で指摘したように「哲学」と「修辞学」は西洋思想において対立する概念でした。ただ、廣瀬が言及する20世紀の思想は旧い哲学を批判して現れてきた新しい哲学なので、単に「美味しい料理の哲学」が「美味しい料理の修辞学」に対立しているとは言えません。しかし、確かに、李の批判を見ると、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」は本当の意味での哲学批判には成り得ていないように思われます。それはシェフによって完成された一つの料理という形態を逸脱するようでありながら、食べる者に結局は一つの料理を与えようとしているに過ぎないのかもしれません。例えば一つのコップの中で様々な味を体験させるという意味で、単なる栄養摂取から離れて、様々な味を体験するということは、シェフではなく食べる者の側で料理が完成するように思われますが、そのような体験を得るためには「コップを一息に飲み干す」という制約に従わなければならないのだとしたら、あまり事情は変わっていないのではないでしょうか。

 

では語られるべき「修辞学」はどのようなものなのでしょうか。李は修辞学について語ることはありませんが、その可能性を追求している芸術家だと言えます。彼は韓国料理を芸術に重ねて次のように語っています。

 

韓国料理を食べていると、つい現代彫刻のことを考えたくなる。現代彫刻は、一つの出来上がった対象物を鑑賞するのではなく、さまざまなものを含んだ空間に、見る者が関わることにおいてそこが作品となるような世界だからである。(「料理と彫刻」)

 

やはりここでも食べる者=見る者という受け手の側が強調されています。この受け手を含んだ形での創造の持つ可能性は様々に語り得るでしょう。例えば李は自らの作品を語ったエッセイを多く含む『余白の芸術』にはそのような綱領的な発言が散見されます。

 

私の作品は私の作品であると同時に、かつ私だけに依るものではない。作品は、私とは非同一なものである。外界が作品深くまで入り込んでいるからだ。私の芸術観は、一言でいえば無限への好奇心の発露であり、その探究である。無限とは、自分から出発して自分以外のものと関わる時に現れるものを言う。自己を自己として定立し表象化するのではなく、他との関係の中で自己の存在を確認し、そしてその関係が成り立つ場において世界を知覚したいのである。(「無限について」)

 

もちろん発現と実作には懸隔があり、綱領を彼の作品に当てはめて考えることは「哲学」に属しますが、しかしここで見えてくる違いには理論的に重要な部分があるように思われます。すなわち、新しい思想が現れたとしても、そこで旧い何かが継承されてしまっているのではないかという問題です。逆に言えば批判されるべき点はどこにあるのかという問題。そうしたことが李のエッセイに触れると明らかになってくるのです。

 

個人的にはそのような問題を「修辞学」というモチーフで見ていければ面白いかと思っていますが(村井則夫「人文主義の可能性――グラッシとアウエルバハにおける修辞学的・文献学的思考」などが方向性を突き詰めています)、『食に淫する』第2号でもやはり同じモチーフで執筆しています(「修辞学」という言葉は使っていませんが)。取り上げたのはチェコの映画監督ヤン・シュヴァンクマイエルです。彼は、自身が創作の中心コンセプトとして探究している触覚芸術について語った文章で、李と同じく、修辞学的な傾向を示しているからです。

 

触覚のオブジェは、「知覚者」と直接接触すればするほど、ますます内容豊かに、感情に訴えてくるようになる唯一の芸術作品であり、私はためらうことなく、その意味(内容、意義、感情表現)がある一定の度合いで変化することもありうる、と述べることができる。[中略]なぜなら、触られるごとにオブジェは変化し、それに触れたあらゆる人びとの感情の分だけ豊かになるのだから。いいかえれば、指がやがてオブジェかその一定の部分に眼に見える跡(汚れ、脂肪、滑らかにされた表面、など)を残す(あらわになったオブジェの)外観ばかりか、感情のレヴェルにおいても変化し、豊かになる。どんなかたちであれ、感覚でとらえられるような触り方をすれば、かならず触覚のオブジェに感情が「込められる」からだ。触覚のオブジェは、知覚者が触っているあいだに自分の感情を入れる貯蔵庫のようなはたらきをする。だが、もちろん、知覚者は触ることによって、逆にそこから、一方では作者が、他方では先行して触った人びとがオブジェに込めたほかの感覚を汲み出してもいる。だから、私はあえて、触覚のオブジェの感情の内容はたえず変化しており、私たちはいつも同じではあるが、同時にまったくことなるオブジェに触れている、といいたい。まさにこの感情にかかわる永続的な変容が、触覚芸術の基本的特性のひとつとなっている。

(「触覚の日記より 1985年1月1日」)