変わりゆく現実とノンフィクション――武田徹『日本ノンフィクション史』(中公新書・2017)

ノンフィクションはフィクションではない。「虚構」ではなく「事実」を伝えるものである。――こうした定義はわかりやすいかもしれないが、「ポスト真実」という言葉すら口にされる現在、「事実」とは何かと考えることは無際限な問いに身をまかせてしまうことになりかねない。

 

『日本ノンフィクション史』(中公新書)で著者・武田徹は、まずこの「虚構ではない」というノンフィクションの定義に疑いの目を向ける。「ノンフィクション」と「ノン・フィクション」という一見表記の違いとしか思われない差に着目し、「ノン・フィクション」には「非フィクション」という含みがあるが、「ノンフィクション」は「ある範囲のジャンル」を示す概念だ、という仮説を提示する。たしかに完全な虚構ではなく事実とつながりを持つが、新聞記事や論文とは異なる「ノンフィクション」。この独特な位置がどのように獲得され、どのような可能性を持っているかを追究するのが『日本ノンフィクション史』の目的だ。

 

 

しかし次のような疑問は当然わいてくるだろう。ノンフィクションが小説や新聞記事とは違う独特なものだとして、その境界はどこにあるのか? それこそ際限のない問いになってしまうのではないか? 本書のねらいを述べた「はじめに」の部分で、武田はその問いを先取りしている。

 

本書ではノンフィクションとフィクションの境界を決定するような、つまりはノンフィクションとは何かを個々の作品を相手取って積極的かつ具体的に定義するような本質主義的なアプローチをしない。そうした神学論争に与することなく、作品より先にノンフィクションという概念がどのように成立したか、それをたどり直してゆく。

 

つまり武田が試みるのは個々の作品がノンフィクションか否かといった分類ではなく、「ノンフィクション」という概念に込められてきた主張を発掘することなのだ。その主張はノンフィクションという用語の普及に一役買った、筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』をめぐる状況の考察を通して導き出されている。

 

この全集ははじめて「ノンフィクション」と銘打たれた全集だったが、編集方針が良くも悪くも一貫していた。特に評価されたのが一人称視点から語る内面の描写を特徴とする作品で、その後の全集に対する批評においてもノンフィクションの進むべき道は文学に近づく(=「人間の魂の内部」を描写する)ことだとされたのだ。こうしてノンフィクションには「人間性」の表現が期待されるようになった。そうした路線に進んだノンフィクションは開高健『輝ける闇』のような名作を生み出しはしたものの、一方では「人間性」の表現が極端に強調されることによって、事実性よりも抒情性が突出した要素と見なされるようにもなってしまった。

 

その問題点を分かりやすく示すのが、沢木耕太郎が試みた「私ノンフィクション」という方法である。語り手=作者の「私」が見たことのみを記述する「私ノンフィクション」では、「事実」が「反証可能性」を失ってしまう。つまり語られたことが事実であるか否かを知っているのは作者だけであり、読者がそれを吟味したり、反駁したり、証明したりといった手続きはあり得ないことになってしまうのだ。そのときノンフィクションは最低限の事実性という倫理も失ってしまうことになるだろう。

 

このようにノンフィクションの衰退を追った武田が新たな可能性として取り出すのが、田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』やケータイ小説だ。これは一見奇妙だが、理由が詳しく説明されている。武田は『なんとなく、クリスタル』が膨大な注を付けることで「細部において『東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化し』ている現実を示した」ために「小説スタイルを借りて現実を描写した」ものであり、ケータイ小説も同様に「細部に現実を直示する記号を配している」、「『操作ログ』を描き込んだ細部において、ケータイの利用方法によって浮かび上がるリアルな人間関係を描いた」のだと述べる。また両者には固有名詞の有無という、現実を指示する効果に大きく関わる違いもあるのだが、武田はこの差自体にも現実とのつながりを見出す。

 

フィクションの中に現実を直示する回路を開くという同じルポルタージュ文学の手法で書かれた『なんとなく、クリスタル』と『恋空』だが、そこに描かれた世界はあまりにも異なる。それぞれが成立した約二〇年間の時差の中で、日本社会に「相転移」をもたらすような大きな変化が訪れたことを、両作品はルポルタージュ文学として、作者の意図すら超えて、示しているのだろう。

 

ふつう事実との関係と言えば「作品が事実に基づいているか否か」が議論になるが、ここでは「作者の意図すら超えて」と言われているように、もはや意識的に基づいているかどうかという点が注目されているわけではない。ノンフィクションについて言われてきた「事実との関係」を捉えるレベルが変っている。現実との「回路」をつなぐ役割を果たすのが作者ではなく、読者になっているのだ。

 

読者が「ノンフィクション」を通して現実を新たに発見するとき、その現実は新聞記事が書くような既にあった出来事とは異なるものになっている。読者が読むごとに新たな見方の下で照らし出される出来事だ。そうした過程を通して、現実が既に決定されてしまったものではなく、見方によって変化しうることを示すところに「ノンフィクション」の価値はあるのではないか。そして読者がその現実の中で生きる人間であるとすれば、「人間性」もまた一つではない。一度は堕落を導いた指針だったとしても、「人間性」の追究は「ノンフィクション」の可能性としてまだ意味を持っているのだ。