狂気の多様性――吉村萬壱『前世は兎』(集英社・2018)

兎から人間に生まれ変わった者は、「気持ち悪い!」と思う。人間の世界ではすべてが名づけられている。兎の世界が単に生きることだけに向かっていたのとは大違いなことに。それに加え、名前があるために許された無秩序さで物体は並んでいる。まるで「百科事典」のように。

 

繰っても繰っても出てくる活字と写真、イラストの際限なさに頭がクラクラしました。それでいて私はこの異様なまでの知識の羅列から目が離せませんでした。怖いもの見たさと言うか、「杏仁豆腐」の写真の下に「アンネの日記」の「アンネ・フランク」が笑っていて、それの下に「鞍馬」に乗った体操選手が足を振り上げているというイラストがある奇妙さに、何か途轍もなく危険な気配を感じてゾクゾクするのです。やばい、と思いました。とんでもない生き物に生まれてきてしまったと臍を噬みましたが、後の祭りでした。

 

 

吉村萬壱が描く変身はつねにこうした「生まれ変わり」である。生まれ変わると、〈兎から人間へ〉というように姿かたちが変わるだけではなく、世界の見え方が変わる。その生を変えた者に、世界は同じようには見えない。おそらくこの多様な世界観の混淆が恐ろしさを生みだしている。初期の短編「人間離れ」(『クチュクチュバーン』に収録)は世界の崩壊後という情景よりも、作品に展開される「論理」のゆえに恐ろしい。

 

「人間離れ」というタイトルは、ある日空から降ってきた緑色と藍色の生命体から逃れるために開発された技術のことを指す。「緑」と「藍色」と呼ばれるそれらが人間を狙っていると考えた人々は、なるべく人間性の規範から外れることでその攻撃を避けようと考えた。編み出された技は〈尻穴に指を突っこみ肛門から直腸を引きずり出す〉というものだった。あるいはゴキブリを食べたり、大量に人間を殺す「二十人殺し」も有効だと信じられた。

 

一見物語はその技が有効であるかのように進んでいくが、ところどころで綻びを見せる。最初は「二十人殺し」を実行した若い男が緑の餌食になること。そして直腸出しを一斉に行った集団が緑の攻撃対象となること。あるいはあまりにも板についた犬ぶりから「犬男」と呼ばれる男が、なんの脈略もなく藍色に脳天を一刺しされること。また、ひとりビルの高所に避難できた男の「しかしここから眺めている限り、人間離れが成功した事例にはお目にかかったことがない」という観察も記されている。ただし、はっきり無意味だと示されるわけではない。たしかに若い男の次に「二十人殺し」を敢行した入れ墨男は緑をやり過ごすことに成功したし、集団の直腸出しが功を奏さなかったのは集団内に直腸出しに参加しない者がいたからかもしれない、と示唆される。また「犬男」が標的になったのが、彼がわずかでも人間的な行動をしたからだ、という可能性も排することはできないし、ビルの男の観察は「眺められる限り」と限定されたうえ、彼の持つ下界への優越感は彼の観察の不確実さを想定するのに十分である。つまり緑や藍色の論理が一切不明であるために、人間たちが「そうだ」(人間を狙っている)と思い込んだだけのことであっても、それにもとづいて論理が作り出され、そのような脆弱な論理であっても暴走し、仲間殺し、無駄死に、喜劇、異端排除に導く、というところに、人々が謎の生命体に惨殺されていくこと以上の恐ろしさがある。

 

世界の見え方、論理付けは、ただ頭のなかにあるだけではなく、人間を極端な行動に走らせる強い力を持つことがある。『前世は兎』に幾度か登場する愛国主義はその典型的な例だろう。しかしこの短編集で重要なのはそうした論理の内実ではなく、論理のありようが直接主題化されている点ではないか。

 

「梅核」には「ヒステリー球」とも言うノドの異常感に悩む男が登場するが、最後には隣に爆弾で怪我した人物がいることが分かり、「国はテロリストを完全制圧したと言うとりますし、総理の平和宣言には「いいね!」が七千五百万個も付いたと言いますから、この国が平和である事はまず間違いおまへんな」と舞台背景が説明され、「げほっ。あ、済んまへん、ナース呼んでくれませんか。血痰出ましたさかい。見とくんなはれ、まるで梅の種みたいでっしゃろこれ」と、その異常感が本当の不調だったことが示唆される。また「宗教」では、「告白したいと思います」とはじまり、「スティレス」がたまると服を脱いでしまう女が「ヌッセン総合カタログ」の写経にいそしみつつ様々な人に気持ち悪がられるというストーリーが語られつつも、最後には「さて、今日はここまでにしましょう。/次回の告白が聞きたければ、また電話して下さいね景山先生」と、「告白」が、「告白」のなかで主要な役割を果たす人物に向けての電話だったことがあかされる。

 

狂った人間が自分の個人的な生活を延々語っているものと思われた作品が、結末に至ってその狂気を包み込む世界の狂気へと反転していく。そしてまた小説がある世界観を提示するものであるとすれば*1、この動きはさらに読者へと及ぶかもしれない。狂気は滲出し、読者自らが他者から同じ狂気を見出される可能性に気づくことになる。

 

人生はレースだ。

 

このありきたりの一言が、傍らに異様な「レース」が置かれることで不気味に輝きだす。最後に収録された「ランナー」はある日突如として降ってきた「パルス」を発するエネルギー源へ向かう作業員=決死隊に選ばれた姉をめぐる物語である。エネルギー源への道行は「レース」、参加者は「ランナー」と称され、ルール無しゆえ暴力沙汰も頻繁で過酷な環境のため生存率は毎年三割程度だという。右半身の不自由な姉が生き残る可能性は限りなくゼロ。この狂った「レース」はしかし、既に参加者ではない「私」をも取り込んでしまっている。「人生はレースだ」と「私」が思ったのは、同じ作業に従事する人間が失敗によって決死隊送りが決まった瞬間だった。このとき既に、日常も「レース」と同じ論理に支配されていると知れる。「ランナー」と一般の人々を分かつ線はなく、ただ人々は自分が「ランナー」に選ばれていないからそうではないと思い込んでいるだけである。

 

姉は、「私」に殴り殺されるとき、「何なの、この下らない世界は」という笑いを浮かべていた。これは九歳の姉が父に贈られた絵本に「何なの、この下らない絵本は」と向けたのと同じ笑みである。彼女にとっては絵本も世界も同じで、同じように下らなかった。このことは人間の世界が「百科事典」のように理性的に組み立てられていることと何一つ違うところがない。兎からすれば気持ち悪いことに。

 

書物と世界の比喩的関係はしばしば「他者の人生を追体験できる」というように幸福なものとして語られる。しかし多くの書物が並びながら互いにまったく異なる世界観を有しているように、人間たちもまた互いに異質なものとして生きているとしたらどうだろうか。そこには狂気も混じる。正常な人間などはどこにもいなくて、だれもがだれかに対して狂っているような世界。そんな多様性に耐えることができるだろうか?

*1:こうした小説観を提示する文学論はいくつかあるが、佐藤亜紀『小説のストラテジー』(ちくま文庫・2012)、T・イーグルトン『文学という出来事』(平凡社・2018)を挙げておく。