書くことでは何も変えられないけれど――こだま『ここは、おしまいの地』(太田出版・2018)、爪切男『死にたい夜にかぎって』(扶桑社・2018)

ほぼ同時に発売された二冊の本、『ここは、おしまいの地』と『死にたい夜にかぎって』。著者のこだまさんと爪切男さんは、以前からともに活動している仲間でもあるそうです。同時に発売されたこと、ともに活動していること、こうした事情は偶然にすぎませんが、この二冊をあわせて読んだときに浮かびあがってくる姿勢が貴重に思えたので、一緒にご紹介します。

 

 

こだまさんは、昨年大きく話題を呼んだ『夫のちんぽが入らない』の著者として知られています。同作は「私小説」と銘打たれていましたが、今作『ここは、おしまいの地』は「自伝的エッセイ」。よりこだまさん自身の心情に寄り添って、素朴で自然に書かれている印象を受けます。もちろん読みやすくするための配慮、面白くするためのユーモアなどはありますが、技巧を凝らしているわけではないでしょう。また『夫のちんぽが入らない』が「入らないこと」をめぐって、さまざまな問題をそこに収斂させていくしっかりとした構造を持っていたとすれば、より自由でもあります。

 

綴られていくのは、こだまさんの過去にあったさまざまな出来事です。入院中に関わった人たちのこと、祖父の死、はじめてのライターとしての仕事、とんでもなく「くせえ」家への引っ越し、夫の傘の紛失。それぞれ関わりのない、けれども著者・こだまの身に起きたこと。『夫のちんぽ』が「入らない」というテーマを提示していたのに対して、『おしまいの地』を通して見えてくるのは、こだまさん本人の生き方だろうと思います。

 

その生き方とはどのようなものか。端的に語られている文章があります。

 

 子供のころから、要求するより我慢を選んだ。

(…)

 はじめは無理やり自分の感情を抑えていたが、次第に我慢が板に付いていった。そして、いつしか忍耐や抑圧なんかではなく、自然な振る舞いとなり、「従順」が私の特徴となった。

(「春の便り、その後」)

 

問題があっても正面から立ち向かうわけではない。風向きが変わるのを待つ。解決に至ることはないと知りつつもそうしてきた著者の姿が、この本には書かれていますしかし一方で、解決がないわけではありません。はっきり書かれていると言ってもいいでしょう。ただしそれは問題解決のために邁進したからではなく、ある時突然、ふっと静かに訪れるのです。暴力をふるう母親は時の流れに従って、「戦隊ヒーローとヤンさん」に熱中する「無害な老人」になった。容姿のコンプレックスを刻みつけてきた「川本」が、何年ぶりかに見かけたとき、自分のことを「すげえ人」と言っているのを耳にする。精神病を患う夫が欠勤も遅刻もしなくなったのは、処方箋や励ましの言葉ではなく、とんでもない異臭を放つ家に引っ越したからだった。どれも乗り越えたとは言いがたい、「解消」と言うのがふさわしいような結末です。

 

また、解決をきっかけとして自分の過去と向き合い、これから態度を改めて生きていこうと決心する本でもありません。我慢を続けてきたし、これからもそうする。それは容易に変えられることではないのです。少しだけ変わったことと言えば、書くことを通して得た「これはこれでいいじゃん」という肯定感くらいかもしれない。けれど、立ちふさがる壁を乗り越えていくよりも、こうした生き方の方がだれかの希望になることもあると思います。

 

「どんなに辛いことがあっても、その中に一つでも楽しさを見つけて笑え」

(「お揃いの診察カード」)

 

『死にたい夜にかぎって』の著者・爪切男さんの父親の言葉です。ここにも耐えてきた男がいる。

 

『死にたい夜にかぎって』は、『日刊SPA!』に連載された『タクシー×ハンター』に大幅な加筆修正を施した爪さんのデビュー作です。連載で中心となっていたタクシー運転手との会話を削除した上で、爪さんが関わってきた女性たち、とくに長年付き合っていた恋人・アスカとのことを軸に構成されています。

 

おしまいになってしまった二人の関係を語ること、そこには追憶がありますが、しかし円満だったと言ってしまえるほど単純なものではありませんでした。アスカの度重なる浮気、爪さんの風俗通い、ほかの人への恋。あるいはどうしようもなく降りかかってくる病気や激務、気持ちの動き。多くの問題を抱えながら過ごしてきた二人の日々は、また「乗り越えてきた」というものでもありません。立ち現れた事件に向き合って、綺麗な解決を迎えるわけではない。むしろ「耐えてきた」と言った方がいいでしょう。

 

 夕日がとても綺麗な今日、彼女は自分の唾を売っていた。その彼氏は風俗嬢の唾を飲んだ。痛み分けでいいだろう。こうやって引き分けをたくさん繰り返して一緒に暮らしていこう。

(「唾の味」)

 

アスカとの初めての顔合わせ。彼女が音楽家になる夢を持っていること、そのために自分の唾を売って生活していることを聞かされ、その生き方に感銘を受けた爪さんが告白し、二人の暮らしが始まります。爪さんはそうすることで彼女が唾売りから身を引けるようにと期待し、アスカも同意しました。しかし、アスカは嘘をついていた。爪さんがアスカの行動を不審に思って尾行すると、そこには唾売りを続けるアスカの姿がありました。そのあと爪さんは風俗に行き、風俗嬢に唾を飲ませてもらう。そのことを受けて語られる思いが、上の引用部分です。

 

なんでちゃんと話し合わなかったのか、相手が嘘をついたから自分も不義理を働いてもいいなどということはない、読者の立場からそう批判するのは簡単でしょう。しかしそういうことってある、とも思う。相手の気になるところを指摘できないこと。悪いと思いつつもなぜか背を向けてしまうこと。それは必ずしも相手がどうでもいいからではないし、明確な理由がまったく思いつかないなんてこともある。もちろんそれが何か解決を与えてくれるわけではないことも分かっている。またちゃんと向き合えば、道が開けるかもしれないという意識もある。それなのに……。そんな自分が嫌になってしまったりもする。

 

そんなアスカの気持ちに気づかないふりをしている私。結婚に踏み切る度胸もない、夢と仕事を両立して頑張る根性もない、生活のために潔く夢を諦める勇気もない、そんな小狡くてどうしようもない自分が嫌になった。

(「一分間だけの恋人」)

 

子供の時からいつも一緒で、あんなに仲が良かった私と東の人生は、どうしてこうも違うものになってしまったのか。答えはわかっている。奴はちゃんと愛する人と逃げずに向き合ったのだ。私はアスカから逃げ続けている。

(「試される女」)

 

問題と向き合ってすっきり解決できればどんなにいいか。でも耐える方を選んでしまう、そういうことがしばしばあります。

 

我慢を続けてきて、最近「これでいいじゃん」と思えるようになったこだまさん。父の言葉を胸につらい状況を耐え忍んできた爪切男さん。お二人の本を読んで、こうした「耐える」という身ぶりが強く印象に残りました。たぶんそれゆえに、語られている出来事が凄まじいものでありながら、どこか静かで、優しい本になっているのだと思います。

 

ここに書かれているお二人の人生は、波乱万丈という言葉がしっくりくるような大変な出来事の連続だったと思います。けれども本の中でその迫力が強く押し出されているようには感じません。むしろ「耐えている」こだまさんと爪さんの姿、その出来事に働かされている二人の繊細な感性に感銘を受けます。逆に言えば、もし出来事の迫力が強調されていたとしたら、そうした姿勢の持つ優しさは失われてしまっていたのではないかと思います。だからこのことを貴重なこととして受け取りたいのです。

 

例えば出来事の「すごさ」を書く本だったとしましょう。その「すごさ」の面白さとは、ある意味他人事の面白さです。経験の特別さが誇られるときそれを面白がれるのは、自分は関係ないといってネタとして消費できる人だけです。似たような境遇にある人、似てはいないけれど同じような苦しみを味わっている人に、その言葉は手を差しのべてはくれません。あるいは「自分も特別に」という欲望を駆りたてて、特別になれなかった人を自己否定に導くかもしれません。

 

こだまさんと爪さんは真逆を行きます。とんでもない状況であっても、それを受け流して耐えているだけでもいいのだ、そのままでいいのだと語りかける。だれかを立ち上がらせるわけではない、たぶんせいぜい顔をあげさせるくらいの言葉の使い方が、でも「書く」とはそういうものではないか、ということを気づかせてくれます。おそらくお二人はそのことを知っていて、自分にとってもそうだったのではないか、と思います。『ここは、おしまいの地』には、こだまさんにとっての「書くこと」がこのように語られています。

 

 情けない日常をありのまま綴った。画面に向かって吐き出しているあいだだけは自分の置かれている状況から目をそらすことができた。文字にすると、どこか遠くで起きた出来事のように思えてくる。心も体も浄化されるような気がした。

 ただそれだけで事態は何も進展していない。自分の中だけの変化だ。そうわかっていながらも、膿を出す作業に明け暮れるようになった。

(「すべてを知ったあとでも」)

 

書くだけでは何も変わらない。けれども変えることができなければならないわけではない。つらい状況に立ち向かうことなく、耐えて生きている人はたぶんたくさんいる。だとすれば、何も変えることがない「書く」という行為が、だれかの忍耐への大きな肯定になるかもしれない。それでいい、何もできないのは悪いことじゃない。『ここは、おしまいの地』と『死にたい夜にかぎって』は、そうした書くことの優しい部分がたくさん詰まった本なのです。