喰人のスタイル――佐川一政『喰べられたい』(ミリオン出版・1993)

パリ人肉事件――友人の女性をカービン銃で射殺したのち、その肉を食すという事件。その犯人である佐川一政が『喰べられたい』と言うのは、なんとも人を喰った話ではある。扉に「これは、限りなく真摯な冗談である。」とるように、佐川はこの慣用句を実体におとしこんだジョークとして本書をまとめたらしい。とはいえ、一方で「食べた側から食べられる側への変転」が真面目に考察されているのもたしかだ。

 

 

例えばその真面目さは、彼の大学院での研究対象・川端康成に改めて取り組んだ一文で、律儀に川端の作品と伝記を参照して論を進めていく手続きに窺われる。ここで明らかにされるのは、川端の女性観はサディスティックであり、極端に言えば佐川と同じカニバリズムへの傾性を持ちながら、『みずうみ』に現われるようにマゾヒズムをも備えていた、ということである。これを佐川は「この、サドからマゾへの移行は何なのだろう?」と検討しはじめる。

 

佐川の見るところ、この移行を支えているのは母への憧憬である。幼くして死別した母は川端にとって無の領域であり、そこを埋めるために非―母的な少女を代償として求めるのが彼の恋愛のあり方であった。それが幻想を押しつけられる女性にとって加虐的なものと感じられるのは間違いないだろう。しかし一方で、そうした幻想に身を捧げることは、当人にとっても加虐的な、つまりは自虐的な行為となる。「加虐とは、己れのプライドや自己防衛本能もすべて投げ打って、欲望にひたすら殉じることだ。考えてみればこれ程自虐的行為もない。」

 

佐川にとっても幻想が、自身のカニバリズムの動機となっていた。収録されたインタビューで繰り返されるのは、人肉はおいしいという俗説でも、愛する人との結合というロマンでもなく、人肉を食べているという現実を直視できないほど幻想に酔っていた自分の姿である。そして佐川はカニバリズムの実行に際して現実に直面する(「妄想と現実の隔たりをまざまざと見せつけられました。決して美しい、特別なものではなかったのです」)ことで二度と食べる側にはなれなくなった。こうして移行が発生するが、その支えとなるのも幻想だろう。川端論の中で「この僕とて、今は、若い女性にいたぶられながら生きたまま喰べられたいと思っている」と自身の心情を了解するとき、サディズムからマゾヒズムへの移行が幻想を土台としたものであるという先の論理を踏まえるならば、人間を食べるのも、人間に食べられるのも、双方がともに幻想にもとづいている点で通底しているということになるからだ。通底しているからこそ、移行も可能になる。

 

しかしこうした移行を認めないのが世間だった、というのが本書で大きく取り上げられているもう一つのことである。カニバリズムを犯した人間は本質的に人肉を好み、終生変わることなどない、というのが彼らの見方だ。これは本質を求め、当人の真実を暴こうとする点で佐川と対立しているように見える。けれども、ここに「そう見たい」という欲望がある以上、見出されたものが彼らにとって都合のいい幻想に過ぎないことは明らかだろう。そのことを佐川は容赦なく指摘する。

 

そこまで〝共同幻想〟に酔いたいという心情は、一度世間からドロップアウトした者を、徹底的に排除しようという心理と、ピタリと重なる。

 

佐川一政が作品として小説を発表すれば、そこにカニバリズムに至る深層心理が探られる。言説は反省の色がなければならない、あるいは逆にアウトサイダーとしてのプライドを見せなければならないと言われる。佐川は女性に幻想を押しつけたためにカニバリズムに至ったが、その佐川こそが幻想をもっとも押しつけられた書き手の一人になってしまったのだ。佐川を批判する人々も、佐川も皆、幻想をめぐっていたに過ぎない。だとすれば、幻想にとらわれているという点で、佐川と読者、読まれる側と読む側は、食べた者が食べられる側に変転するのと同じく一致することになってしまう。

 

しかし、おそらくそれこそが佐川のねらいだ。佐川は、自身が幻想を求め、読者も幻想しか見ないために、「すべては幻想でしかない」というところに立脚しはじめるのだ。エッセイを書き、小説を発表することで自身の気持ちを理解してもらおうとは、もはやしない。そうした真理の存在を佐川は認めない。彼の書くものは、彼自身の本心を示すのではなく、彼に幻想を押しつける読者の振舞いを露呈させる。本書で行われる彼の次のような宣言は、そうした読者に仕掛けられた批評を明示するものだ。

 

少なくともスタイルだけは、いつまでもこわもてのカニバルで通してみよう。