自由に生きる術――櫛野展正『アウトサイドで生きている』(タバブックス・2017)、石山修武・中里和人『セルフビルドの世界』(ちくま文庫・2017)

自由に生きる――これが『アウトサイドで生きている』と『セルフビルドの世界』に共通するメッセージだ。この二冊の本には、様々なアマチュア表現者が登場する。『アウトサイドで生きている』にはセルフポートレートを中心に活動する87歳の写真家・西本喜美子や、河川敷の草むらを刈り、ジバニャンなどの模様を作り出す藤本正人、武装ラブライバーなど。『セルフビルドの世界』にはビニールハウスで作られたレストラン、コンテナの飲み屋、船をつなぎ合わせた住居など、住む人が自分で作り上げたかたちの建物がいくつも紹介されている。

 

 

既存の価値観にとらわれない彼らの生み出す表現は自由だ。ただしその自由さは、食べたいものを食べるとか、好きなときに寝るとか、働かないとかのように生活の一部に確保されるものではなく、生きることの全体を覆ってしまうようなものである。自由「に」生きる、自由を生きる場所とすること。しかしそれは、自由という言葉の甘美な響きに反して、必ずしも楽なことではないのかもしれない。『アウトサイドで生きている』の冒頭で、櫛野展正はこう書いている。

 

本書に登場する人たちは、自分の人生に自分で覚悟を決めた人たちだ。彼らは、失敗を恐れてはいない。思い立ったら、すぐ行動に移す。誰になんと言われようと自分のやりたいことをやり続ける。そして、自分の人生を自分らしく生きるために、何をして何をしないかをはっきりと決めている。

 

「何をして何をしないかをはっきりと決めている」とあるように、これらの人々が実現している自由とは、いわゆる「なんでもできるし、なんでもする」という意味での自由ではない。むしろ「何をしないか」を決めているために、それとは相容れないものですらあるだろう。彼らはある種の不自由さを抱えながら表現しているのだ。たとえばあさくら画廊の店主・辻修平は作品を制作する一方、切磋琢磨したり作品を広報したりするための「つながり」を断つ。岡山県の路上生活者・通称「爆弾さん」は、レールの敷かれた進路から外れた結果、レールに戻ることができない状況にある。自分の食べたものを描き続ける小林一緒は歩行障害を抱え、好きなものが必ずしも食べられない状況を、「食べものを描く」という行為によって生き抜いているかのようだ。

 

たしかに彼らには不自由な部分がある。しかし、それを突き抜けて自由であるという印象を与えもする。おそらくそれは、「自分のやりたいこと」を決めているからだろう。誰か他の人でもできることには目もくれず、自分のやりたいことだけをすること。それは誰かの決めた基準には従わず、自分自身にだけ従うということだ。これこそが自由の優れた定義ではないだろうか。

 

ところが現代は自分自身に従って生きることが難しい時代である。そもそも自分が生きる場所すら自分で作ることができないと思われているではないか、という問題提起から出発するのが『セルフビルドの世界』だ。生きること、生活することが即座に人間を束縛してしまう。石山修武は「大方の人間は家を買うものだ。あるいは借りるものだと考えている。しかも家は最大級の商品であるから銀行から多額の借金をして、それでほぼ一生かけてその返済をするものだとも考えている」と指摘した上で、こう述べる。

 

家の本当の機能は人間の生活を守るシェルターだ。あるいはより快適に、自由に生きようとするための道具でもある。この快適、自由というのが全くとりちがえられている。家を買うために一生を不自由に暮らさなければならないとしたら、そんな家は疫病神であるとしか考えようがない。

 

家、つまり生きる場所が、作られたものとしか考えられていない。それは単に金銭的に圧迫されるというだけではなく、生きることの根本に不自由さが挿入されてしまっているということでもある。誰かが作った場所に合わせて生きていかなければならないとき、自分のどこかが抑圧されることになるだろう。だから、生活の場を自分で作る「セルフビルド」は、生きることそのものを自由にするための営為となる。

 

ここで実現される自由が「なんでもあり」という意味での自由ではないのはもちろんだが、正しい自由を知ることができる点にだけ意義があるわけではない。石山は「セルフビルド」は「自己表現としての生活術」だと言う。つまり、生活の場を自分に従って作り上げることは、自分の基準の在り処を見定めることであり、作られたものによって自分の世界が提示されるということになるのだ。ここに、自由に生きることの魅力と価値がある。

 

自由に生きることが自分の世界を提示することだとすれば、それを見ることはその人にとっての世界のあり様を知ることでもある。そしてこの二冊の本で提示される世界はそれぞれとても異なっている。人によって世界はこんなにも違うのだ。しかし社会は、人によって異なる見方、感じ方、考え方を抑制し、整えて扱いやすくしていこうとする。そこで均されない特異さを持つ個人は排除されてしまうだろう。そうして世界は一様だと思わされているのだ。しかしこれらの本で開示される世界の違いは、世界がデコボコであることを思い出させてくれる。それは一つの世界に馴染めない人には安心感を与え、自分自身に従おうという人には勇気を与えるだろう。