菅原克也『小説のしくみ 近代文学の「語り」と物語分析』(東京大学出版会・2017)からジェラール・ジュネットへ――物語論の「物語」の行くすえのためのメモ

 小説のしくみを物語論の道具立てによってあきらかにする。「しくみ」とは制度であり、しばしばそれが意図的に踏み越えられることから小説の楽しみはうまれる。けれどもそうした楽しみを理解するために物語論は作られたのだろうか。個人的に小説を楽しむのなら、もっと粗雑に、自由に感情移入する、あるいは作者の人生を投影するなどの方法もあり得る。物語論はそれらの内のひとつに過ぎないのであって、もし物語論こそが小説の楽しみを示すのだと主張するとすれば、それは一種の勝手な特権化でしかないのではないか。というのが菅原克也『小説のしくみ 近代文学の「語り」と物語分析』の読後感だった。

 

 

 というのも本書では物語論の概念は使われても、その概念を生み出す基盤が一切検証されていないのだ。それゆえ物語論は奇妙な単純化を経て現われることになる。とくに物語論で「焦点化」と呼ばれる概念を扱う第三章「語りの視点」には、参照されたジェラール・ジュネットとの重要な違いがあるだろう。菅原によると「焦点化」は語り手と作中人物の関係を「何が語られるか」という基準から整理するために用いられたものだという。このとき「焦点化」の種類(非焦点化・内的焦点化・外的焦点化)を分けるのは「語られる情報をめぐる作中人物と語り手の関係」で、語り手がいかに作中人物の内心をのぞき込み、物語世界を自由に動きまわるか、あるいはそうしたことができないか、ということが注目される(「『非焦点化』の語りにおいては、語り手は物語のあらゆる作中人物の心の中に入りこむことができるし、物語世界の作中人物が誰も知らない情報を伝えることもできる」)。

 ところがこの「物語世界」の中の「作中人物」に「語り手」が入りこむという書き方はジュネットの枠組みから逸脱している。そもそも「焦点化」の文脈で「語り手」や「作中人物」に触れることをジュネットは否定しているのだ。『物語のディスクール』への批判に応えた著作、『物語の詩学』では次のように述べられている。

 

私の考えでは、焦点化をおこなう作中人物というのも、焦点化された作中人物というのも存在しない。焦点化されたという表現は物語言説そのものにしか適用しえないし、また焦点化をおこなうという表現は、たとえ何者かに適用されるとしても、それは物語言説に対して焦点化をおこなう人物すなわち語り手――あるいは虚構の約束から逸脱してもかまわないなら、作者その人[中略]――に対してでしかないはずだ。

 

次のような言い方もしている。

 

ともかく焦点化という術語で私があらわそうとしているのは、「視野」の制限、すなわち物語情報に加える選別にほかな  らない。こうした視野の制限と対立するのは、伝統的に全知と呼ばれていた形式であるが、純粋な虚構の場合、「全知」というこの述語は、文字通りに解釈すると自家撞着となる(作者がすべてを案出する以上、「知っている」必要などないからである)。それゆえ、全知という術語を用いずに、充全な情報と言い換えた方が適切であると思われる[中略]一方、情報の選別(場合によっておこなわれたりおこなわれなかったりする)に用いられる手段が、設定された焦点である。これはいわば情報の隘路であり、情報のうちでもこの隘路にうまく合うものだけがそこを通過できるのである

 

 こうしてみると菅原の力点の置き方がずれていたこともあきらかになる。つまり「語られる情報をめぐる作中人物と語り手の関係」と言うとき、菅原はあとの方の「作中人物と語り手の関係」を重視しているのだが、ジュネットにとっては「語られる情報」の方が重要なのだ。このポイントを捉えそこなってしまったために、ジュネットとミーケ・バルの議論の違いを引き受けることができず、結局なぜジュネットにもとづく物語論を参照するのか、という根拠が曖昧なまま残されてしまうのである。

 では改めて物語論を参照する意味とは何だったのか、と考えてみよう。意味があったとしたらそれは何だったのか。『物語のディスクール』の時点でも「情報」が問題になっていたのは明らかだ。

 

以上の通り暫定的に名付けられ定義された「距離」と「パースペクティヴ」こそ、叙法という物語情報の制禦の、二つの本質的様態なのであって、たとえて言うならば、ちょうど一枚の絵を前にした時に私の持つ視像が、明確さの点では私とその絵とを隔てる距離に関係し、面積の点では、その絵を多かれ少なかれ遮っている何らかの部分的な障害物に対する私の位置に関係するのと同様なのである。

 

 ジュネットが「焦点化」の議論の際に提示する物語のあり方はこのようなもので、日常的な読書経験からすると少し不思議な印象を受けるのではないだろうか。語り手が何を語っているか、作中人物がどのような意識を持っているかということが注目されているのではないし、ましてや読者がどこに感情移入できるかということではない。ひたすら情報の伝わり方が着目されているのだ。

 これを徹底して物語を考えるということは難しいと思われるが、こうした物語観がもたらす可能性を考えるためのヒントはいくつかある。たとえば最近翻訳が出て話題のネルソン・グッドマン『芸術の言語』で提示されている次のような芸術観。

 

芸術と科学のちがいは、感情か事実か、直観か推論か、歓喜か熟慮か、総合か分析か、感覚か思索か、具体か抽象か、受動か能動か、間接か直接か、真か美かといったちがいではない。むしろ、記号が持つ諸特性のうちどれが優勢であるかのちがいである。

 

またエリザベス・シューエルが『ノンセンスの領域』で『不思議の国のアリス』から引き出す物語の言語の様態。

 

指されているものが、この世に実在するものか否かはこの際関係ない。相手がライオンだろうと一角獣だろうと、「さあこのものたちが相手だぞ」と我々の心は言うのだ。しかしこれは間違いである。事物の宇宙ではなく言葉の宇宙であって、言葉の使い方がすべて、それに幾許かの挿絵が入っているノンセンスの宇宙を前にしては、少なくともこれは間違った態度である。

 

 両者ともに芸術を一種の記号のシステムとして論じようとする点で一致している。真なる対象を指示するわけではなくても存在する記号のはたらきを示す芸術。またグッドマンが『芸術の言語』で提示した議論を『世界制作の方法』で日常世界の認識構造にかんしてプラグマティックに発展させていくことと、シューエルが『オルフェウスの声』でもっと神話的に「世界」の記号システムを論じていこうとすることも、軌を一つにしているように思われる。

 ここからとりあえず行く末を見通そうとするならば、ジュネットが「焦点化」の議論において物語を物語世界の実在性から切り離して情報に還元して捉えようとしたのは、物語を日常世界ではたらく記号の一つとして扱うためだったと言うことができるかもしれない。だとすれば、ジュネットから小説のしくみの本質論を引き出そうとする行き方は取りこぼす部分が多すぎるのであり、それは逆に小説が小説である理由を考えることから永遠に遠ざかる。