本の姿態――ピーター・メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』刊行記念 高山宏×山本貴光対談を聞いて

7月21日(金)はピーター・メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』刊行記念として行われた高山宏さんと山本貴光さんの対談に行ってきました。

そこで話された内容を含めつつ、考えたことなどをまとめておきたいと思います。

 

 

 ピーター・メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』という本にはデザインが凝ったビジュアルな書物だという印象を受けると思います。

そういった本はいくつか思い浮かびますが、高山宏さんは自身が翻訳したエディー・ラナーズ『イリュージョン』を指摘していました(ちなみに書店で配布されている山本貴光さんによるブックガイドではマーシャル・マクルーハン+クエンティン・フィオーレ『メディアはマッサージである 影響の目録』が指摘されています)。

(『イリュージョン』はAmazonなどで安価に購入できる→Amazon.co.jp: イリュージョン: エディ ラナーズ, Edi Lanners, 高山 宏: 本

これらの本に共通しているのは本の物質性への注目であり、ラナーズは同書の末あたりで本のページを読者が折るように指示していたりするといいます。

では、こういった試みが複数現れるのはなぜか、その理由として高山宏さんは本の物質性が近代において抑圧されてきたことを挙げます。

そして1960年代から、そういった抑圧、つまり本が何か思想や情報をもたらすものであってその媒体は問題ではないとして受け取るような態度、に対する反発が起き、「本も紙なんだ」という主張が発生しました。

ラナーズは、タイトルからも窺えますが、その主張を「見えているものはイリュージョンに過ぎない」という形で述べ、いかに視覚が騙されやすいものなのか(そもそも常に騙されているものなのか)、ということを暴きます。

 

そういった視覚への関心から話は視覚文化論の方へ行き、日本の視覚文化論がそもそもの用語からして全然成立していないと叩かれます(このあたりの話はこの講演に少し出ている→メディアの近代史-イグナティウス・デ・ロヨラとマーシャル・マクルーハン-

その叩き直しのためには用語から行わなければならないのだから、ジョン・バージャーの "Ways of Seeing"(邦訳『イメージ Ways of Seeing――視覚とメディア』) あたりまで遡ってやることなどが提案されますが、そういった視覚に注目するのは、ヨーロッパに端を発する近代というものが見る文化に他ならないからだということが言われ、その視覚文化が重要な問題を持っていることも示唆してくれました。

 例えばメンデルサンドがとり上げる『白鯨』から。

高山宏氏は先日ミネルヴァ書房から刊行された『白鯨』論集に寄稿したとのこと→白鯨 - ミネルヴァ書房

ここで出てくるクジラがなぜマッコウクジラなのかと言えば、マッコウクジラは両の目が離れているために焦点が合わない存在なのに対し、人間は一つの焦点を持つ、持ってしまう存在だ、というように対比されているのだ、とか。

 

そしてまた、一般に言われる『白鯨』は百科全書的だという評言にある含みは、 encyclopedia が知を円で囲むこと、輪に囲まれた子供というギリシャ語の意味にあることなどが近代に関わっているとされます。

輪に囲まれた子供という点は当日配布された山本貴光さんによる「学魔を読むときに何が起きているのか」というプリントで西周が encyclopedia を訳するときに「輪の中の童児」と書いていたことも指摘されていました(このプリントは高山宏『かたち三昧』のpp.32-33を読んだときに山本貴光さんが何を考え何をしたかということを記録したもので、オークションで本を買ったり、関連する気になった本を探していたりする内に一段落しか読めていないというもの。この資料および「おみやげ」に配布された資料について山本貴光さんブログに解説あり→高山宏先生との対談への補遺 - 作品メモランダム

このプリントではじめに注目されているのがアレグザンダー・ポープでしたが、彼の活躍した時代はまさに18世紀、百科全書の時代であったということが、とり上げられたページでは語られています。

この18世紀、もう一方で円というか輪の中に収めるという思想が現れてきていて、それがエンクロージャであるといいます。

(このあたりのことを『情報の歴史』で調べると、百科全書が1750年代、エンクロージャーが1760年代から始まり、同時代にロマン主義という近代国家形成を背景とした運動が盛んに行われていたことも知れる。)

これは「囲い込み」という意味ですが、政府の側が土地を囲い込み、自作農を追い出して農業を営むためにはそういって生まれた地主と契約を結ばなければならなくする動きでした。

ここには囲い込むことで支配するという発想が如実に現れていますが、まさに百科全書も知識を囲い込むことでそれを「分かる」という理念であったことが分かります。

そして、見ることによって「分かる」ということ。

これが、近代という見る文化、というか視覚専制であり物質性は抑圧するような文化を推し進める発想としてセットされていたことだというわけです。

 

ところが、実際に『白鯨』が百科全書的であると言われるときに、あるいは18世紀のサミュエル・ジョンソンやポープの詩を見るときに、それらがはたして近代的であり、そして全てを知ることを目論む合理主義的であるかと言えばそうではないことが分かるといいます。

会場で詳しく話されたのはポープでしたが、彼の語の屈曲は自身が加担していたピクチャレスク・ガーデンの動き、とりわけその中にある洞窟と結びついているのです。

すなわち、洞窟=グロッタに語源を持つグロテスクという言葉。

ここに18世紀イギリス文学をマニエリスムと呼びうる本質があるのだとされます(その挑戦を受けて八木敏雄英語圏マニエリスムを考察しようとするマニエリスムのアメリカ』を刊行した)。

 

 こういった関係への鈍さ、といったものが学術界にはあって、なぜ詩人が庭の話をしているのかということにも反応しないという点に高山宏さんは疑問を感じています。

そもそも西洋では造園術が重要な芸術分野であることも、日本では滅多に注意されることがありません。

その点の平行を知らしめてくれる本としてワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』が紹介されていました。

また西洋では詩人で建築家という人は多いのに日本では立原道造以来いない、ということも。

 

以上、おおよそ対談の流れを。その他には character の話やルビの話、ネットの話、韻律と記憶術の話など…。

 

ところで、山本貴光さんはエリザベス・シューエル『オルフェウスの声』を持参してきていました。

そのときはシューエルの「詩は力を持つ」という命題を人文科学を生きるための一つの言葉というような点で取り上げられていましたが、それだけではなく、はじめに語られていた本の物質性についても指摘している本のように思われてなりません。

 

エディー・ラナーズ『イリュージョン』のあるページは、白地に一文だけ、「このページに文字はない!」とだけ書かれていますが、これはパラドックスを引き起こしているでしょう。

つまり、文字の意味情報をのみ見ればページに文字がないということを示していますが、感覚的に言えばそのページには文字があると言わなければならないということになってしまいます。

しかしこの事態は強調された事態に過ぎず、いわゆる普通の本を読むときにも迫ってきている事態だと言っているのがロザリー・L・コリーです。

 

言葉を物に即合させることが仲々厄介なことを考えると、言語人間(homo loquens)たる我々がパラドックスを抑圧などしきれるはずがないのである。言語は、ぎりぎりの正確さを追求すると言いながら、いつも大なり小なり限定を加えるものであって、指示される当の対象に対して完全に十分なものということは決してあり得ず、そういう意味ではいつも嘘をついているのである。(ロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ』)

 

すなわちそもそも言語それ自体がパラドックスを孕むということであって、しかし人が言葉を使う以上、そのパラドックスの射程を究明することが必要だと言えます。

コリーがそこで見出すのは、言葉と物という二つのものを一致させようとするそもそも不可能な試みのために用いられる「フィギュラティヴ(figurative)というか喩の言語」です。

ここで出てくるのが figures of speech という文法上の概念であって、日本語では明治以来「詞姿」などと翻訳されているものですが、E・R・クルティウスが忘れ去られていたものとして『ヨーロッパ文学とラテン中世』で注目したものでもあります(コリーはパラドックスの流行に注目するきっかけとしてクルティウスのトポス批評の恩恵に与ったことをはじめに言っている)。

クルティウスは緩叙、換喩、提喩などを挙げ、「この表現法はギリシア語では schemata(姿勢、態度)、ラテン語では figurae と呼ばれる」と説明し、例としてクインティリアヌスの「からだを直立させて、両腕を下げ、両眼を前方に向けていれば、そこには優美さがほとんどない。しかし生命と芸術はきわめて多様な姿勢によって美的印象を生み出すことができる」という文章を挙げたりしていますが、よく分からないという感じをどうしても拭えません。ただ、少なくともコリーが言うように「いくつかの違うものを結びつける」という試みにおいて現れてくるもののようではあります。

 

これを神話的な見解によって試みるのがシューエルだと言えます。

オルフェウスの声』邦訳の帯文に採用されたジョージ・スタイナーによると、その依拠したオルフェウス教は自然に暗号を見出し、それを解いていくことを目指すが、その発想の基には人の言葉が自然物と同じように創造されるということがあるといいます(『脱領域の知性』)。

 この過程で『オルフェウスの声』の注目するのが「舞踏」であって、それは肉体を言葉の使用において含みこむということを忘れさせないという点で注目する価値があるとされます。そこで出てくるのが figures of speech なのです。

 

ダンス、というか踊りのイメージは仲々巧い。このプロセスが肉体を本質的に熱く巻きこむことのない抽象的なプロセスだと思い込むことがなくなるからである。「フィギュア(figure)」という語自体が、こうしたパートナー同士の配置の可能性をみずからの中に含んでいる。詩の道具として比喩形象、つまりは詞の姿、詞姿 “figures of speech” があるわけだが、「フィギュア」はダンスの、様式化されつつも自在な、変化と運動の関係もろもろでもあるし、こうした手続きの方式それぞれがそもそも存在する前にそれらに人の形姿が与えられるのでなければなるまい。(『オルフェウスの声』)

 

言葉を用いるときに忘れられがちな「変化と運動」を思い起こすこと。

これは正に身体を持って人が世界に生きていることを思い起こさせるものであって、また言葉から成立する書物もまた世界において存在するものであるということの可能性を考える方向に赴かせる視点でもあるでしょう。

というのは、そうした自然物との比喩形象的なつながりはこの世界の有様について考える試みと離れることがないことだからです。

 

今福龍太氏は『身体としての書物』でヴァルター・ベンヤミンの読書に関するエッセイをとり上げながら「身体としての書物」という主題を追求していますが、そこではベンヤミンの言う触覚的な書物との関わりが既に忘れ去られ、二度と取り戻すことの出来ない記憶に重なっていることを論じています。

これは言葉の読解にもまつわる事態であって、子供が言葉を上手く読めない時期に感じていた言葉の物質性(Worte と Wolke に近親性を感じるような)を、言葉の意味、情報を重んじる「大人」の態度においては完全に復活させることのできないものであるからだとされています。

しかし、コリーが言うように言葉がそもそもしっかりと物と対応していないのだとすれば、そのような「大人」の態度というものは決して絶対的な正しいものではないということになるのではないでしょうか。

『身体としての書物』では、最終章でエドゥアール・グリッサンの『全―世界論』の「世界の本」という章についてこのことが語られています。

ある個人が言葉を発する、書物を読む、言葉を発する、という行いを通して、言葉が変化し、ある個人が変化する、こうした過程を通して世界が変化していく。

グリッサンはその間に「不変数」として、世界の全体像を模索するような古典的著作を読むようにも勧めているが、それは世界全体の中で不変なるものとしての川の流れ(それはミシシッピ川だが水は常に同じではない)の中にいるある出会いの地点としての合流点=群衆 confluence として存在することを要求してもいます。

 

こうして、本の figures に目を向けることは開かれた状態にあることを提起してくれますが、これは近代に行われたエンクロージャーや百科全書への批判ともなっているでしょう。

しかし百科全書について言えば、それを担った人物が単に合理主義的ではなかったのではないか、という点に重要な問題点があるのであって、果たして言われるような近代的システムが確固たるもので、絶対的なものではないのではないか、という意識を持つことにつながるように思われます(例えばある人物のアイデンティティははっきりしていなければいけないのか? それは一つのものに定まっているのか? 国は一つの民族によって担われているのか?)。

本の姿態に注目するということは、単に本の手触りが好きだとか記憶しやすいなどといったある意味では合理主義的発想に基づく価値のためではない可能性を持っているのかもしれません。

 

メンデルサンドの本はさほど面白いというわけではありませんが、このようにビジュアルを活用することによって、普通に読書しているときには気づきづらいかもしれない意味情報が確実に、明瞭に、合理的に伝達されているのではないのだ、ということから本の物質性を思い出させる点で、そして今生きている世界への認識を目覚めさせることにつながるのならば大切な読書となるのではないでしょうか。