喰人のスタイル――佐川一政『喰べられたい』(ミリオン出版・1993)

パリ人肉事件――友人の女性をカービン銃で射殺したのち、その肉を食すという事件。その犯人である佐川一政が『喰べられたい』と言うのは、なんとも人を喰った話ではある。扉に「これは、限りなく真摯な冗談である。」とるように、佐川はこの慣用句を実体におとしこんだジョークとして本書をまとめたらしい。とはいえ、一方で「食べた側から食べられる側への変転」が真面目に考察されているのもたしかだ。

 

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自由に生きる術――櫛野展正『アウトサイドで生きている』(タバブックス・2017)、石山修武・中里和人『セルフビルドの世界』(ちくま文庫・2017)

自由に生きる――これが『アウトサイドで生きている』と『セルフビルドの世界』に共通するメッセージだ。この二冊の本には、様々なアマチュア表現者が登場する。『アウトサイドで生きている』にはセルフポートレートを中心に活動する87歳の写真家・西本喜美子や、河川敷の草むらを刈り、ジバニャンなどの模様を作り出す藤本正人、武装ラブライバーなど。『セルフビルドの世界』にはビニールハウスで作られたレストラン、コンテナの飲み屋、船をつなぎ合わせた住居など、住む人が自分で作り上げたかたちの建物がいくつも紹介されている。

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菅原克也『小説のしくみ 近代文学の「語り」と物語分析』(東京大学出版会・2017)からジェラール・ジュネットへ――物語論の「物語」の行くすえのためのメモ

 小説のしくみを物語論の道具立てによってあきらかにする。「しくみ」とは制度であり、しばしばそれが意図的に踏み越えられることから小説の楽しみはうまれる。けれどもそうした楽しみを理解するために物語論は作られたのだろうか。個人的に小説を楽しむのなら、もっと粗雑に、自由に感情移入する、あるいは作者の人生を投影するなどの方法もあり得る。物語論はそれらの内のひとつに過ぎないのであって、もし物語論こそが小説の楽しみを示すのだと主張するとすれば、それは一種の勝手な特権化でしかないのではないか。というのが菅原克也『小説のしくみ 近代文学の「語り」と物語分析』の読後感だった。

 

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変わりゆく現実とノンフィクション――武田徹『日本ノンフィクション史』(中公新書・2017)

ノンフィクションはフィクションではない。「虚構」ではなく「事実」を伝えるものである。――こうした定義はわかりやすいかもしれないが、「ポスト真実」という言葉すら口にされる現在、「事実」とは何かと考えることは無際限な問いに身をまかせてしまうことになりかねない。

 

『日本ノンフィクション史』(中公新書)で著者・武田徹は、まずこの「虚構ではない」というノンフィクションの定義に疑いの目を向ける。「ノンフィクション」と「ノン・フィクション」という一見表記の違いとしか思われない差に着目し、「ノン・フィクション」には「非フィクション」という含みがあるが、「ノンフィクション」は「ある範囲のジャンル」を示す概念だ、という仮説を提示する。たしかに完全な虚構ではなく事実とつながりを持つが、新聞記事や論文とは異なる「ノンフィクション」。この独特な位置がどのように獲得され、どのような可能性を持っているかを追究するのが『日本ノンフィクション史』の目的だ。

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惨めな「ワナビー」たちの小さな革命――ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店・1994)

 

獄中から、つらつら考えたとき、ブリソーにとってアンシアン・レジームなるものは、彼自身のような自由な精神を圧し潰す陰謀であるかのように見えただろう。シャルトルの酒場経営者の一三番目の息子として生まれた彼は、これより七年前に、パリを首都とする文芸共和国の尊敬すべき市民としての地位を獲得しようと試みたのだった。その目的にふさわしいテーマについて、彼は何千ページも書いた。(…)若い文筆家としてなすべきことは何でもやったにもかかわらず、パリは彼をフィロゾーフとして認めようとしなかった。

 

フランス革命期にジロンド派の指導者として活躍したジャック=ピエール・ブリソーという人物がいる。自身の回想録で彼は、自分が革命精神を体現する一生を送ったのだと主張する。フランス革命期に生きた「一つの世代の願望の完全な象徴」、歴史学者はこうしたブリトー像を認めてきた。しかしダーントンは彼を検討する章に容赦なく次のようなタイトルを付ける。「どん底世界に棲むスパイ」。

 

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『スクリブナー思想史大事典』詳細目次

今年、2016年1月に発売されました『スクリブナー思想史大事典』(全10巻、703項目)の詳細な目次を作成しましたので公開します。

皆さまのご研究の糧にしていただけましたら幸いです。

 

スクリブナー思想史大事典目次

 

色々と見づらい点、誤字脱字など不備も多数あるだろうこと、あらかじめご了承ください(何かお気づきの点などございましたらTwitter(@ishoukiyou)でご連絡いただけると助かります。確認の上、適宜反映させていただきます)。

概要としては

①「邦題」、「原題」、「著者」、「訳者」、「通し頁数数」という項目に分ける。

②小項目も著者基準で分割し、それぞれ「大項目(小項目)」という形で並べる。

という形で作成しました。

どうぞご利用くださいませ。

 

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美味しい韓国料理の修辞学――李禹煥の言葉から

昨年、第21回文学フリマ東京(2015年11月23日)にて発行された、尊厳さん制作の食と性に関するZINE『食に淫する』(詳細は以下。5/1の第22回文学フリマ東京では第2号が発行されます。)に「美味しい料理の修辞学」というタイトルの評論を寄稿しました。

shokuniinsuru.tumblr.com

文中で明らかにしているように、これは廣瀬純『美味しい料理の哲学』に着想を得て書いたものです(廣瀬さんは最近『美味しい料理の哲学』の続編をネット上で書き始めておられます→廣瀬純「おいしい料理の哲学」#1 切断について | FOODIE(フーディー))。

 

同書で取り上げられた料理の一つにヌーヴェル・キュイジーヌなるものがありました。「ヌーヴェル・キュイジーヌ」とは1970年代にフランスで現れた、素材を優先する簡素な傾向を持った調理法のことで、廣瀬はこれを出来合いのレシピを提供するのではないある種即興的な料理のあり方の例として用いていました。確実には得られない、要素の関係性に価値を見出し、それを「美味しさ」として言祝ぐのです。そこで私は、その「即興的な料理」を「読み取られ得る意味」へと転換してみることで、ここで言われているのが一種の修辞学の問題なのではないかという議論を行いました。

 

しかし日本のいわゆる「もの」派を主導した現代美術家である李禹煥は、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」に対して真反対の意見を述べています。

 

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