狂気の多様性――吉村萬壱『前世は兎』(集英社・2018)
兎から人間に生まれ変わった者は、「気持ち悪い!」と思う。人間の世界ではすべてが名づけられている。兎の世界が単に生きることだけに向かっていたのとは大違いなことに。それに加え、名前があるために許された無秩序さで物体は並んでいる。まるで「百科事典」のように。
繰っても繰っても出てくる活字と写真、イラストの際限なさに頭がクラクラしました。それでいて私はこの異様なまでの知識の羅列から目が離せませんでした。怖いもの見たさと言うか、「杏仁豆腐」の写真の下に「アンネの日記」の「アンネ・フランク」が笑っていて、それの下に「鞍馬」に乗った体操選手が足を振り上げているというイラストがある奇妙さに、何か途轍もなく危険な気配を感じてゾクゾクするのです。やばい、と思いました。とんでもない生き物に生まれてきてしまったと臍を噬みましたが、後の祭りでした。
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灰色の抵抗――和田洋一『灰色のユーモア 私の昭和史』(人文書院・2018)
第二次世界大戦中、文化人はどのように生きたか。そこに圧政にも負けず、自らの思想信条を守り、英雄的に戦ったひとびとの姿を見たいという気持ちは自然なものだろう。しかし、『灰色のユーモア』に綴られているのは決してそうした「白い」姿ではない。たしかに「黒い」わけではないけれども。
1938年、雑誌『世界文化』がマルクス主義者の宰領するものとみなされ、その同人だった和田洋一は治安維持法により留置場に送られた。前年秋にも『世界文化』同人は逮捕者を出しており、その流れであると知れた。けれども和田は熱心にマルクスの著作に取り組んだことはなく、マルクス主義者ではなかった。彼は『世界文化』で亡命知識人の動向など海外の文化情報を紹介することで、ヨーロッパで強まるファシズム勢力への反対の気分を日本に伝える程度のことしか考えていなかった。そんな彼をマルクス主義者として罰しようとする特高と和田のやりとりは、ユーモラスでもあり、黒でもなく、白でもなく、あいまいな灰色のなかに置かれる。
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書くことでは何も変えられないけれど――こだま『ここは、おしまいの地』(太田出版・2018)、爪切男『死にたい夜にかぎって』(扶桑社・2018)
ほぼ同時に発売された二冊の本、『ここは、おしまいの地』と『死にたい夜にかぎって』。著者のこだまさんと爪切男さんは、以前からともに活動している仲間でもあるそうです。同時に発売されたこと、ともに活動していること、こうした事情は偶然にすぎませんが、この二冊をあわせて読んだときに浮かびあがってくる姿勢が貴重に思えたので、一緒にご紹介します。
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変わりゆく現実とノンフィクション――武田徹『日本ノンフィクション史』(中公新書・2017)
ノンフィクションはフィクションではない。「虚構」ではなく「事実」を伝えるものである。――こうした定義はわかりやすいかもしれないが、「ポスト真実」という言葉すら口にされる現在、「事実」とは何かと考えることは無際限な問いに身をまかせてしまうことになりかねない。
『日本ノンフィクション史』(中公新書)で著者・武田徹は、まずこの「虚構ではない」というノンフィクションの定義に疑いの目を向ける。「ノンフィクション」と「ノン・フィクション」という一見表記の違いとしか思われない差に着目し、「ノン・フィクション」には「非フィクション」という含みがあるが、「ノンフィクション」は「ある範囲のジャンル」を示す概念だ、という仮説を提示する。たしかに完全な虚構ではなく事実とつながりを持つが、新聞記事や論文とは異なる「ノンフィクション」。この独特な位置がどのように獲得され、どのような可能性を持っているかを追究するのが『日本ノンフィクション史』の目的だ。
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